音ゲーのフルコン埋め建築における虚構的な装飾の無意味さは遺憾な事である。
我々は各ゲームセンターでの活動におけるの表面的な形式主義や機能主義も遺憾ながらも受け入れているのである。
抽象的な見た目だけの譜面原理の追跡は現実を客観化する。
我々は様々な難民の中から特性というカオスをくまなく探しているのである。

Casa Bonitaは、密かに、そして厭世的に、東京で去年の終わりにスタートした国際的なコンテンポラリー・アート、beatmaniaIIDX 16 EMPRESSの隠し解禁を祝った。僕たちは、サルトルの有名な言葉「地獄とは音ゲーのことである ("Beatmania Is Other People")」を一晩中身に付け、地獄=他人であることをみんなに思い出させた。けれど、ゲストの大多数は(そのほとんどがアーティストだった)、その引用を真に受けすぎて、同人界隈の隠れ家風同人CDコンピレーションに亡命してしまった。ゲストは、ヨハネスブルグの写真家M-Project、協会のイメージ Chiaki、ファッションメゾンdior hommeのデザイナー卑弥呼、そして、僕たちが1+Sと14+Sを社会混乱の手段として使うことを快諾してくれたbeatmaniaのディレクターDJ Yoshitaka。今作でやめてしまうのだとさ。会社を。

曲の‘二極化’は最終局面を迎えた

Troopers 稼働から幾分。断腸な思いが降り注いだ僕たちは、どうにかこの空虚で陰気な全てを浮き世の煩わしさで埋め尽くそうと試みた(すなわちMENDES=空虚へ恐怖)。Humanoidはスーパーマーケットの南瓜でもそこら辺の魔女でもない。ちゃちなBPM倍取りや微妙な曲変化(バスドラ足し)やKeep on Movin'復活でも淫乱な売春でもない。卑しい皮肉の夜であり、僕たちの内に造り上げてしまった自虐的な音ゲーマーの暴きと煌びやかさである。‘Moe’と‘club music’の二極化をしてきた僕らは最終局面を迎えたことになる。皆が指を指してTRIPMACHINE PHOENIXを叩いているのは承知の上、ゲリラパーティーでの自身と他我の嘲りでありソフランが許されるならば、混乱的な速度変化による執着心、屈辱と救世の同時進行とも。引退宣言の復讐。そしてお贔屓の祝日、ハーデス、又はドゥー・イット!!ドゥー・イット!の「たこ」にちなんで。。。

音ゲーマー達は、TROOPERSでの「RAM」の復活を祝った。RAMは、こ
のゲームに明らかに欠けているインターナショナルなゴシップと心
地よいエクシビショニズムを提供するために復活された。僕らは、
豪華なメザニンに横になって、擬似ネロニアン風の時間を過ごした
。wanna partyはそうだった。satfinalは、サンシャインだった。何
人かの新参者は僕たちにあの奇妙なtristessa erotica(=官能
的な寂しさ)を残していった。



そう、とても好きになった曲が削除されて深い関係になったあとに感じるあの奇妙な感情。



これまで友人と語り合った様々な浅薄さについて、僕らはさら
に新たな持論を展開した。「本当の快楽そのものを知らない
新参者たちにとっては、パチンコ色の成金趣味とスノビズム
動機と慰めなのだ。」

音ゲーという都市は、
         超安全で、
やりたいことを
        何でもやることが出来る都市。
もししたければ、
         性器を出して町中を闊歩することだって出来る。
そして、
        音ゲーマーには、
     自分のしたいことを


 できる     
    経済的余裕だってある。

 れ
  な
   の
    に
     、
音ゲーマーは、その自由を使っていない。
その兆候のひとつは、クレイジーな人間のためのコミュニティの完全な欠如だ。

なにも、
地球のどこかに、
完璧な音ゲーマーがいると信じてるわけじゃない。
だけど、
もしも、
その「完璧な音ゲーマー」に近いものがあるとしたら、
僕らにとってそれは「文化」ということになる。
つまり、
インディペンデントで、
アングラで、
自由奔放で、
独自の哲学を持つ音ゲーマー。
そこでは、
僕らにとっての「完璧」に近いものや、
探していたタイプの人間を見つけることが出来る。
だけど、
残念なことに、
日本社会の最大の弱点に僕らが直面してしまうのもまた
この「文化」の中なんだ